E2A中国道あれこれ
作成 2019年1月22日
更新 2024年3月26日
E2A中国道の建設に関するトリビアを、様々な文献をもとに分析していく。
E2A中国道の設計調査に携わる資料を岡山県立図書館経由で入手した際、最初の計画ではトンネル・高架橋の繰り返しによる立派なハイウェイを建設する方向性になっていた。現実は例の通りだが、ではどうやって、あの道を作ったのかを考えてみた。文献や当時の経済状況などを考慮しながら、探ってみる。
1957年の国土開発縦貫自動車道建設法では、「起点・吹田市、終点・下関市、重要な通過点:兵庫県加東郡滝野町附近 津山市附近 三次市附近 山口市附近」という文言がある。重要地点に選定された自治体は、交通の要衝としての役割があったが、その検討材料としては、当時重要とされていた国鉄駅のそばに作ろうという考えがあったのではないか。
並行しているのは、福知山線(JR宝塚線)・姫新線・芸備線・山口線・美祢線・山陽本線。加えて、重要拠点とされる福崎町の駅がある播但線も加える。
国鉄路線がある場所に並行した道筋を辿る。吹田~三次と山口~下関は下地となる国鉄路線が存在するため、中国地方の中心部に出来るだけ沿うという前提で建設し、かつ、もしもトンネル・橋梁を多用すると工期に時間を要す可能性が指摘されたため、もとの地形に沿ったルートで建設する方針が固まる。
三次~山口までは国鉄路線が無く、前例が存在しない。そのため、調査委員会では「広島まで経由した後で山陽線沿いを経由するコース(三次南線)」と、「あくまでも忠実に中国地方の中心部を経由するコース(三次北線)」の2ルートを広島県などに提示。
当初の計画では建設費・維持管理のし易さ・広島市へのアクセス容易さを勘案し、三次南線になる方向だった。ところがそこへ「三次北線」へ根回しするよう、強烈な誘致活動を沿線自治体が展開。南線と北線で激しい駆け引きが行われたとされる。結果、1967年の国土開発幹線自動車道建設審議会で三次北線経由が採択された一方、三次南線に関しては南側を通るE2山陽道建設を「バーター」と見なす形で史実になった。
三次北線が確定した後は、インター予定地を策定。
難工事の末、今に至る。
後はその地形に適し、かつ、早期開通が実現できるように盛土を重要視するコースを多用し、やむを得ず長距離トンネルを伴う場合に限り、暫定2車線で運用する。1983(昭和58)年に、一部で暫定2車線を残す形でE2A中国道が全線開通。その時には既に、E2山陽道の「卵」(たつの~備前)が誕生していた。
E1A新名神が開業する前まで、京阪神と中国・四国地方をダイレクトに結ぶ道路がE2A中国道だけしか無かったため、地元住民と中・遠距離利用客が同一路線でごっせごっせになっていた。特に坂道の起点となる宝塚東・西トンネルでの大渋滞は「史上最悪レベル」として悪名高い場所だった。現在はE1A新名神が開業したため、「以前よりかはマシ」(開業前より約25%交通量減少、渋滞回数は約7割減少)。
新見インターの先に設置されている、60キロ規制標識。
この区間のE2A中国道は、他と比べると道幅がかなり狭く、カーブの半径もシャレにならないほどに厳しい。時速60キロを超える走行は道路交通法違反になるが、それ以前に60キロを超えた走行は、かなり不安定になるほどだ。時速60キロの走行に不満を抱く人もいるようで、北房インターから新見インターが4車線化(昭和53年開通当初は暫定2車線)した後に走った岡山県在住の男性の話では、下記のようなコメントが新聞に掲載されていた。
速度規制に関する不満は岡山県そのものにもあり、平成5年の「中国横断自動車道の建設推進及び中国縦貫自動車道の改良整備に関する要望書」の中でも、時速80キロへのスピードアップを図る記述がなされている。
ここでNEXCO西日本に登場してもらいましょう。以前、私が「どうして60キロなのか」を質問したところ、NEXCO西日本はこういう理由だった。ざっくり言えば、
という回答を得た。前述の男性が「時速60キロでの走行は勘弁して」という声も、NEXCO(当時は日本道路公団)としては「60キロの道路ですから」となるので、これ以上のスピードアップは困難である。但し、その後で北房インターから約4キロ先までの区間は、時速80キロでの走行を担保できるように小細工をしている。といっても、以前からある道路そのものに対して特に手を着けていないため、道路設計の基本仕様書となる「道路構造令」の解釈を見直した可能性が高い。
北房地区を経由するルートが採択された理由って、何なんだろう?岡山道接続との兼ね合いか?
後述の三次北vs三次南の時と同様、津山市~新見市までのルートに関しては「出来るだけ姫新線沿いに並行するルート(津山北ルート)」か、史実の真庭市北房地区を経由した上で、北房~新見は急傾斜な坂道・理不尽なS字クランクを連発させる構造にするかで検討が行われたという。
三次北ルート vs 三次南ルート騒動から見える「勝ち組の論理」
広島北JCT~山口JCTが、なぜあんなガチ山を通るルートが採択されたのかという疑問に答えるため、広島・島根・山口県立図書館のレファレンスサービスを活用して調査してみた。
既に回答が分かっていることとして、吹田JCTから三次インター、鹿野インターから下関インターまでの区間は建設する上での調査の結果、現在のルートで問題ないと判断されたが、三次インターから鹿野インターまでは史実通りのルートを辿る「三次北線(A案)」か、芸備線→広島市可部地区→山口県錦町を経由する「三次南線(B案)」のどちらかを検討していたことが、調査報告書の結果で明るみに出ている。
調査報告書の末、当時の建設省・公団の考えとしては「南線の方が効果的」という結果になろうとした。
公団の見解としては「北線の方が中立性がある」ということなのだろうが、そんなはずはない。これは公団(現在のNEXCO西日本)の建前だろう。ていうか、現在のNEXCO西日本の職員ですら、中国道の生い立ちを知る人がいるかすら不明。ということは、たとえ建前論に終始するにしても、当事者である通過自治体(千代田町・加計町・戸河内町・筒賀村・吉和村・錦町・六日市町など)が残した資料を探っていくしかない。
資料を探してもらい、そのコピーを見たら、まさに我田引水を肯定的に解釈する話がズラズラと出てくる。ある自治体の資料では「公団・建設省がB案の方が建設的コストを抑制できることや、国道2号に近いために合理的なんてのを言っていたから、冗談じゃない。計画線では中国地方のど真ん中を通るように示したんだから、ちゃんとその通りせんかい!建設促進会を結成し、何としてでもA案を通るようにずっと働きかけてやる!」みたいなことが平然と記載されている。
実際、公団がまとめた資料や、ある自治体がとりまとめた簡単な地図では、B案のルートはE9山陰道・広島⇔松江ルートの横断線も視野に入れた構想になっていた。現実的に考えれば、そのルートが最も無難であるばかりでなく、E2山陽道が不通になっても高規格な山陰道で迂回する方が、本来の幹線道路の在り方としては理に適う。
「中立」とは聞こえがいいが……。(写真は千代田町史・下巻の一部より)
計画線の上では、中国地方を出来るだけ半々に分け、そこから必要に応じて横断線を整備することで均等化が図れるという目論見だったが、広島北JCTからのガチ山のオンパレードであり、その割に主要な自治体を通らない(それでいて誘致すれば経済活性化に繋がるという発想)。その結果、鰻登りの建設費が出た反面、そこを通過する利用客は1日2000台前後、インター利用客数も下手すると500台を下回る場所が出てくるなど、残念ながら、現代社会においては適切なルート選定であったかどうかは疑問である。
仮に三次南ルートが採用されていたら、広島北JCTからE74広島道・E2山陽道方面のコースが「E2A中国道」として扱われ、広島岩国道路を含めた国道2号バイパス自体がE2山陽道のような形で整備されていただろう。もしくは岩国~徳山は、JR山陽線と同じルートを辿っていたかもしれない。
出来上がってしまったものは仕方が無いし、懸命に誘致活動を行うこと自体は全然構わない。だって私も高速道路は好きだし、出来るだけ隅々まで幹線道路を整備して欲しいという願いはあるから。だが、だからといって我田引水のようなノリでガンガン高速道路を作った挙句、よほどの事態が発生しない限りは空気路線になってしまうのも考えようである。
町村史の中では住民の声は殆ど掲載されていない。載っていても「コレで我が村は輝きを取り戻せる!」みたいな、都合の良いポジティブな話しかない。実際のところは多種多様な考えがあり、必ずしもポジティブに捉えていた住人ばかりとは限らないと考える。
おそらく、この区間のE2A中国道は、
みたいな形で、「必要だけど、住人は政局の具材に晒されて置いてきぼり」となったのではないか。
歴史というのは、常に勝ち組の論理と言われている。この場合、町村史に記録された中で今のルートが確立したと書くことが出来たのは、表向きには熱心な誘致活動と言えども、実際には強力な政治力が働いたためである。もしも百歩譲って、B線が採択されていれば、そもそも町村史の中で「そんなことを言った覚えは無い」で終わり。また、負けてしまったB線の自治体の言い分は抹消されるか、もしくは開き直って「山陽道の誘致に全力を尽くして参りました」と言い訳が出来る。なので、本当に必要な道路なのかを考察するにあたっては、少なくともB線を通る当時の証人たちの声も拾った上で、立体的に分析していくしかない。
メッセージを寄せた投稿者から「山口~鹿野を先行整備した理由は何か?」という質問を受けた。一つ有力的なのは「中心線沿いの沿線自治体へ根回しが出来るよう、さほど問題視されなかった該当区間を早々と着工しておき、南線・北線どちらにも振れるように一手を講じていたのではないか?」というのが私の推測である。
※美祢インターから鹿野インターの整備計画が発動されたのが1967年11月9日であり、本格的な工事に踏み切ったのが翌年の4月1日。鹿野インターから千代田インターの北線確定が1967年11月22日であるため、北線が有利になるように水平線上で根回し工作をしていたと考えられる。
メッセージを寄せた投稿者から「建設の有無を問わずに地域の衰退化が進んでおり、現実と大して変わらないとみていた。それよりも今後もE2A中国道を末永く維持できるように願っている」という声も戴いた。
これに関しては出来上がったものは仕方が無い上、よほどのことが起こらない限りは、E2山陽道の負担軽減に貢献できる路線とは言いがたい。NEXCO西日本が出来ることとしては、現状のE2A中国道を除雪作業や高速道路リニューアル工事などを除き、出来るだけ必要最小限のメンテナンス程度に留めるしかない。
E74広島道(中国横断道)・広島北インターは、仮称は安佐北区安佐町に設置されることから「安佐」という名前だった。そもそも、最初の計画では安佐地区を経由するルートにはなっておらず、現在の北広島町にあたる豊平地区を経て、戸河内町(現・安芸太田町)に到達する予定だった。調査の結果、断層帯を通過することやE74浜田道の建設絡みで安佐地区を経由する方が得策であることから、計画が見直されて史実通りになる。ある種、見直しによって誕生した申し子のような存在とも言える。
広島建設局が残した記録では、広島北インターは広島北JCTの増枠扱い。
当時の道路施設協会が発行した地図には、広島北インターは「空白」扱い。
開業当時は広島北JCTの枝番号(26-1)として扱われ、後に広島道が広島JCT・五日市インターまで延伸した際に「1」と改番されている。但し、この番号は当時の広島建設局(現在の西日本高速道路中国支社)が残した資料によるもので、1986年3月当時に発行された高速道路ガイドマップでは「空白番号」になるなど、文献によって解釈が異なる。
例の芸人の事故はそもそもの話、ココでハンドル操作を誤った芸人が中央分離帯に激突し、避難しようとスタッフが本線に飛び出たら、その瞬間に跳ねられた。そこで気が動転して、別のスタッフと芸人が後続車に合図をしようとクルマの後ろに立ったところ、後続車がそれに気づかずに跳ねられてしまった。
【基本的なこととして】
このことを例の芸人が知っていた場合は、最悪の事態は回避出来ていた可能性はある。
実は、この部分は片側3車線に拡大できる構造になっている。具体的には、この線区だけ路側帯の幅員が3.25m確保(他は2.5m、北房~新見は1.75m)されているため、路側帯を1.75mまで削減し、浮いた部分を活用して車線を引き直せば、理論上は片側3車線化は可能。E23東名阪道の強引な6車線化と同じ理論である。
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